昔からTwitterが苦手だ。

起こったり思ったりしたことはまず印象として受け止めてしまう。その為すぐに言葉につながらないので、じっくり腰を据えて長文を書くときに初めてなんとか心を言葉に当てはめる。しかしそうではなく、起こったことを瞬時に自分の言葉でユーモアを交えながら140字以内にしたためるスキルを持った人々が一定数存在する。感嘆の声を漏らすとともに、脳みその出来が違うんだわとがっかりする。ちなみにわたしは根っからのうう脳である。

言葉が嫌いだ。

言葉は必ずしも本当のことを語らない。そのままを語らない。言葉は嘘をつく。mixiのに存在したコミュニティの名前だ。昔入っていた。のちにイツエがこれをタイトルにした曲を制作した。もちろん着想を得たのがこのコミュニティ名なのかわからない。だけど、言いたいことは同じだろう、と勝手に共感してしまう。ほら、ここでも私は果たしてこの言葉の本音を受け入れられているのだろうか?コミュニティを作った人の「言葉は嘘をつく」という言葉に込めた思いと、イツエの曲名の「言葉は嘘をつく」という言葉が示すものは同じなのだろうか?言葉は共通認識でしかない。共通認識なんて、この21世紀にあるはずがないと思う。幻想だ。それぞれに違う人生を送ってきたのだ。赤が赤に見えないことだってあるのに。

アマチュアリズムが嫌いだ。だけどそれに加担している。

人類が自らの思想を語る場はもっと神聖で崇高な場だったはずだ。女人禁制、子供禁制。古代ギリシャでもそうだろうし、90年代のインターネットもそうだろう。(これは外から見てる印象。中に入ってしまえば酒まみれ欲まみれだっただろうけど)
なし崩しのように学芸会アイドルがまかり通って久しい。「わたしもアイドルになれる!」と夢見る少女の心のどこに罪があろうか。だけど、一定の水準にならないと人様の前には出てはいけませんという芸能の仕来りはどこに行ってしまったのだろうか。まして金儲けの道具。話が逸れた。

「自分もこんな文章ぐらい書ける!」とプロの真似をしていた時代はよかった。それぞれのテキストサイト管理人/ブロガーに矜持めいたものがあった。一定の水準に満たないものはお目汚しだと日々鍛錬されていたし、文体が洗練された人は残った。
「自分の”好き”を伝えたい!」こうなったのがいけなかった。ある一定の水準よりも自分の好きを優先した結果、アメブロが大流行した。自分が好きなのは自分だった。愛される自分になりたかった。ところが愛する自分が好きな人もいた。それはファンブログになった。対象に共感を持って覗くと、画像と「今日もかっこいい/かわいい😊」。何が言いたいのか全然わからない。だけどそれも彼や彼女にとっては自分探しの一環なのだ。ファンだからといって語りたいわけじゃないだけなのだ。

スマホの普及で、一億総写真家/ブロガー/メディアといわれる昨今。どこにフリーのプロとアマの違いがあるだろう。プロはお金をもらって仕事をする、という最低ラインがあるが、他にも締め切りがあり、嫌いな対象と付き合わなくてはならないし、現状を維持する労力が意外にかかるなどというという線引きがあると思う。その点アマは楽だ。好きなときに好きなものを好きなように表現して好きなときに世界にアップロードすればいいのだ。人は人の思いを欲しいている、と薄々わかってからは、周りに受け入れられてこなかった自分の目線で物事を修飾することにすこしずつ自信を覚えた。自分がこの人何書いてるんだろう?というものを読んでも次の瞬間には忘れられているのと同じで、固有名詞について書いてもよっぽどアンチ的な悪口を書かない限りは、思いが自分に合わなければ忘れてくれる。そういう意味でもアマは楽だ。そんなスタンスでいる限り一生稼ぎにはならないけど。生活のために文章が書ける人を本当に尊敬している。わたしもまた、自分のために書いているだけだ。

誰でも言葉を利用して公開できる反面、ある程度のものが読みたいと思う。だけど書く練習をしないとある程度にすらなれない。これなんかひどいよね。わかってる。でもこの一方通行のテンションじゃないと、こんなこと、公開できない。